2050年1月1日土曜日

時間


この文は、2017年9月に書いている。
朝だ。
リビングから、長男と妻のやりとりが聞こえてくる。

「青くん、何食べる?」
「タベナイ」
「食べないと学校間に合わないよ」
「ガッコウイカナイ」

長男の青はもうすぐ七歳、知的な障害のある自閉症、
特別支援学校小等部の一年である。
リビングへ行ってみると、腹を出してフローリングに寝転がっていた。

「青くん、学校行かないの?」
「ガッコウイカナイ」
「バス乗らないの?」
「バスノラナイ」

三歳の次男の姿が見えない。

「橙は?」と妻に聞く。
妻はテーブルで、長男の連絡帳を書いている。
「寝る部屋」
「なんで」
「眼鏡かけたくないって拗ねてる」

次男の橙は最近、重度の遠視とわかり、
起きている時間は眼鏡を常時着用しなければならない。
寝室に行くと、窓際のベッドの端にうずくまっている。
脇に腰掛けたら、小さな両手で顔を覆った。

「だいちゃん、パパです」
黙っている。
「だーしゃ」
「・・パパあっち行って」
覆った手のひら越しに、か細い声だ。
「だいちゃん、メガネかけてほしいな」
「かけない」
「よく似合ってるのに」
「かけないいい」

ないないづくしの朝だ。
でも嫌な気分じゃない。
そこに言葉があるからだ。

*****

2014年6月
当時三歳半の長男に言葉は無かった。
次男は生後三ヶ月、
私は世話が大変な長男を受け持つために育児休業中で、
彼を憎む気持ちを日増しに強めていた。
周りが幼稚園に通い始める中、
言葉を話さず、言葉を聞かず、ただ暴れて泣くだけの子供。
障害ゆえに出来ないことなのに、苛立って叱りつけ、
それで泣き暴れるのをまた怒鳴り散らし、
彼が重荷で仕方なく、
この先がどうにも憂鬱で、
誰とも話したくなかった。

障害を持つ息子が可哀想なのではなく、
障害を持つ息子を持つ自分が可哀想だった。

精神安定剤に依存し、二時間おきに飲んでいた。
危機感を持った主治医が薬を変えたが、これが合わずに禁断症状が出た。
体中が激しく痛み、手足が震え、
学校のチャイムの音が二十四時間頭の中で鳴っていた。
それは自分の人生の刻限を告げているように思えた。

この文は、三年前の自分へ宛てた手紙のようなものだ。
伝えたいことは単純で、
結局のところ「時間が多くの物事を解決していく」という事実である。
しかし、どんな時間でもいいというわけではない。
多くの物事を解決していくのは、
物事と真剣に向き合った時間だけだ。

*****

鮮明に憶えていることがいくつかある。
ひとつは次男の百日参りのために、妻の実家の長野諏訪へ帰った際、
諏訪大社の社務所で申し込みの書類を書いた時のことだ。
ボールペンを持った瞬間「あ、書けない」と思った。
禁断症状の震えが止まらないのだ。
後頭部から汗が噴き出すのを感じる。
右の手首を、左手で押さえたら書けるだろうか、それだと震えているのがばれてしまう。
いや、それでも書けないよりはいい。
住所、親の名前、子の名前。
子の名前まで、永遠にたどり着かないと思った。

まあ正直、これは大したことではない。
無理をすれば笑い話にできるくらいだ。
だが他の記憶は、到底笑い話にできない。

長男と風呂に入っていた。
二人で浸かったバスタブで、子供がコップにお湯をすくい、それを私の顔にかける。
すくって、かける。すくって、かける。ずっと続ける。
「青くん、もうやめて」
すくって、かける。
「青くん、やめて」
すくって、かける。
「やめて」
すくって、

気がつくと、子供の頭を押さえて沈めていた。
彼の右手のコップを取り上げなかったのはなぜだろう。
取り上げて、泣き叫ばれるのが嫌だったからか。

押し返す力はあまり感じなかった。
静かだ。
自分の呼吸の音を久しぶりに聴いた。
吸って、吐いて。
三回ほど聴いてから手を放した。
頭が水面に出てくる。
左手で顔をぬぐうと、私の方を向いて元通り立った。
しかし、私のことは見ていない。
私を見てくれたことはない。

彼が右手のコップでまたお湯をすくい、
それを私の顔にかけた。

頭の中が真っ黒に沸騰した。

子供の首に手を当てた。
左手ひとつで余るくらいだ、右手は添えるだけ。
ぐいと力を入れて沈めると、揺れる水越しに彼が私の目を見た。
なんだ、見れるじゃないか
見れるじゃないか見れるじゃないか
もっと押せ
もっと押せ左手、もっともっと押せ押せ押せ押せ
両目が見開く、ううううという唸り声を聞く、唸っているのは自分だ
唸っているのは自分だ
俺は何をやっているんだ

俺は何をやっているんだ?

ざばんとしぶきを上げて青が立った。
ほんの少し間があって、ぎゃーっと泣き出す。
「青ごめん」
手を伸ばして肩に触れると、びくんと震えて後ずさった。
「ごめん青。ごめん」
何もかも終わってしまう気がした。
いや、今にしてみれば終わらなかったのだ。
終わらずに済んだのだ。
でもその時は、「終わってしまう」としか思えなかった。

翌朝、自転車で路地を曲がって環八に出た時、
ハンドルを切り損ねて車道へ転倒した。
青を発達支援のデイサービスに送っていく途中だった。
こちらに走ってくるトラックを見ながら、
二人とも死ぬかもしれない、それもいいと思った。

だがトラックは目の前で止まった。

自転車を起こすと、車窓に自分の顔が映った。
一瞬見間違うほど自分の父親と似ていた。
ひょっとするとそれは、私の中に残っている彼そのものだったのかもしれない。
涙もろくて怒りっぽくて繊細で、酒を飲みすぎて死んだ父。
最期の病院で十七の息子に「母さんを頼む」と言い残して無責任に死んだ父。
私は父を責めながら生きてきた。
しかし車窓の父は私を責めるでもなく、なじるでもなく、
ただ私を見ていた。
私が私を見ていた。
振り返ると、青が車道に立っていた。
どこか打っただろうに、泣きもせず、じっと立って私を見ていた。
私を気遣うように見ていた。

その後、降りてきた運転手に大丈夫かと聞かれた記憶はあるが、
ちゃんと謝ったかどうか憶えていない。
どうやって青を施設に送り届けたかも憶えていない。

憶えているのは、千歳烏山の駅前の広場だ。
遊具の隣りのベンチにひとりで座って、梅雨空と鳩を見た。

「自分の人生」
と、口に出してみた。
自分の人生の主役は誰だろう?
主役は自分だと思っていた。事ここに及んでも思っていた。
違うのだ。
自分の人生の主役は自分じゃない。
脇役なのだ。
脇役になったのだ。
主役だと思っているから、怒りを制御できないのだ。
脇役なのだ。

梅雨空の下、駅前広場のベンチに猫背の脇役。
腰骨のあたりに打撲の鈍痛。
それが人生の底だった。

*****

大きなリュックを背負った長男が先を歩いていく。
送迎バスの停留場所まで、自宅から十分ほどだ。

「青くん、車に気をつけて」
「キヲツケルシナイ」
「はじっこ歩いて」
「ハジッコアルクシナイ」

最近は何でも否定文だが、ほとんどの場合は本気ではない。
「ガッコウイカナイ」と言ってはいても、
本当に嫌がったことは今のところ一度もない。

先刻、妻に抱かれて玄関まで見送りに出てきた次男も
結局は眼鏡をかけてくれていた。
「似合うねえ」と褒めると、満更でも無さそうだった。

あれから特別なことをしてきたわけではない。
と言うより、特別なことはやめた。
ただ子供が笑顔でいられるように、
まず自分が、子供に笑顔を見せることを心がけてきた。いつもは難しいが。

時間。
時間が過ぎていく強さ。

三年前の自分、この先どうなるものかと混乱している君
あと半年もすれば、君の息子は君のことをパパと呼ぶ
一年後には自分で用を足し、服を着替え、
君に「アリガトウ」と言うだろう
二年後には箸を使い始め、椅子に座る時間が伸び、
近所の人に「コンニチワ」と言えるようになる
そして三年後には
絵本を読み、歌に合わせて踊り、君に憎まれ口をたたくのだ
それは新しく適切な療育の数々を提供してくれた、地域の専門家達のおかげであり、
君の息子にとって最適な組み合わせを選択した、君たち両親の成果だ

停留所、上級生の男の子が
なかなか来ないバスにしびれを切らしている。

「ねえ青くんパパ、バスまだー?」
「んー、もうすぐ来ると思うよ」
すると隣りの青が
「ア!バスキタ!」
全員が車道を見ると、満面の笑みで
「ウソー」
なんだよー、と、みんな笑った。



2022年8月31日水曜日

同じこころ

八月三十日、テレワーク。
長男の青は九時に障害児向けの歯科検診→そこから発達支援デイサービス、
次男の橙は十時からBOP(小学校のスペース開放)。
妻とは「青と母親で歯医者からデイ、橙と父親でBOP」と打ち合わせていたが、
八時を過ぎて橙が
「歯医者に自分もついていく。そのままBOPへ行く」と言い出した。
なるほど、ママの自転車の後ろで楽々移動というわけか、妻は苦労だが・・
青は母と二人がいいのでぶうぶう言うけれど
「仕方ないだろ。仕方ないことはあるよ、君にだって」と言ったら、
予想外にぐっと黙った。

ところが出がけになって、
橙が「やっぱり歯医者にはついていかない」ことになったという。
どうしてかと妻に訊くと
「自転車でBOPに送ってほしいだけでしょって訊いたら、そうだって。
 十時より遅くなってもいいらしいので、
 いっぺん帰ってきてから連れて行くわ」
青は再びニコニコ、「ハイシャがんばるね!」と言い残して玄関を出る。
一方の橙はリビングの床に寝そべり、あっちのほう向いて、
「なるべく早く帰るからねー」という妻の呼びかけにも
「んー」と教科書通りの生返事である。

妻と長男が行ったあと、橙の横に座って、顔を覗いてみた。
泣いていた。
「どんなこと考えてた?話してみてほしい」
「・・ついていけば早く、ラクしてBOPに行けると思ったんだ」
「そうだね。パパとなら歩きだもんな」
「でも」
「うん」
「青くんとふたりのほうが、ママはしんどくないから・・」
とそこまで言ったところで、もう一度むせるように泣いた。
自分の我儘に対するバツの悪さと、
ただママと一緒にいたいという単純な気持ちと、
そのどちらも言葉に出来ないけれど、
ない交ぜになって小さな背中から立ちのぼり、彼をたまらなく愛おしく感じ、
「えらいねおまえ」と言って抱きしめた。
抱きしめながら、驚いたことに自分のほうでも激しく涙が溢れてきて、
私の嗚咽にびっくりした息子が顔を上げ、腫れた目でこちらを見た。
なんとか「すまん」とだけ言った。

朝九時のリビングで、私が抱きしめているのは息子だが、
同時に、かつて子供だった自分も抱きしめているような感覚に襲われた。
こういうことがとてもたくさんあった、
その時わかってもらいたかった、えらいねって言ってもらいたかった、
でも言葉には出来ない。
男親だから、おなじような心を持った同士だから、
僥倖のようにわかってあげることができたのだ。
そのあと、ふたりでティッシュを取ってお互いに渡して、
お互い涙を拭いて、もう一度抱き合った。



2022年5月22日日曜日

父を嗤う

何か月かに一度、週末に太宰を音読する。
だいたい富嶽百景、駆け込み訴え、桜桃の順で、
四半世紀以上そうしているし、これからもそうするだろうから、
徒労以外の何物でもないとは思うが、
死ぬまでには諳じることができるかもしれない。

太宰を読むときはいつも、父のことを思い出す。
私が最初に嵌まった中学の時分、
まだ生きていた父は、明らかに嬉しさを押し殺した仏頂面で
「遅かれ早かれ、太宰に嵌まるのはすごく解るで。
 せやけど大人になってまで引きずるもんでもないがな」と言っていた。
だが私は既に四十七歳、人の親となって久しいけれど、
性懲りも無くいまだに太宰を読んでいる。
それは
「ロックなんて、いつまでもやるもんじゃねえ」
と自分で意気がっていたおっさんどもが、
老いさらばえてなお、練習スタジオへいそいそと集まるさまと似ている。

富嶽百景で真人間になろうと結婚をし、
駆け込み訴えではイエスを裏切るユダの心理を鮮やかに描いた口述を、
その妻に書き留めてもらって、絶好調の太宰はしかし、
桜桃では長男の障害とどうしても向き合えず、
逃げた先の酒場でサクランボを不味そうに食べている。

先生、あなたは逃げたが、私は逃げませんでしたよ、
と上から独りごちる時、同時に頭に浮かぶのが、
自閉症児の長男のことよりは、むしろ親父のことなのだ。
彼が人生を通じて逃げたこと、向き合えずにしまったこと、
民族、血脈、それらに起因する抑鬱。
太宰のきらびやかな文才は、父と私を繋ぐ触媒だ。
私は太宰を読みながら、大人になれずに死んだ父を嗤う。
嗤うが、とても懐かしい。




2021年4月16日金曜日

ダッコ

金曜の朝、駅に向かう道で若い夫婦が立ち往生している。
幼い息子が抱っこをせかんで泣いているからだ。
ダッコ、ダッコとすがりつく子は二歳と三歳の間くらい、
お母さんは「たあちゃん歩けるでしょ、歩きましょう」と繰り返し、
追い抜きざまに見たお父さんの顔は、金曜の朝らしくぼんやりとしている。

追い抜いてから、そこそこ距離が開いても、
子供の訴えはどんどん声高になるばかりで、
耳から一向に遠ざかってくれない。
「ママダッコ!ママダッコ!!」
どうやらお父さんが抱っこしようとしたが拒まれたらしい。
後ろに娘を乗せた男の自転車が、今度は自分を追い抜いて行った。
「あの子おんなじクラス?」「そうだよ」

育休を取って当時三歳の長男と出歩いていた頃、
あのお母さんとそっくり同じことを言っていた。
どうしても歩いてほしくて、次の電柱まで歩けと言い、
そうして無理やり歩かせ、じきに埒があかなくなり、
電柱一本向こうの息子と睨み合った時の、彼の顔を今でも憶えている。
ぼくのこと、すきなの?きらいなの?

誰の気持ちもよくわかる。
大人も子供も、目前のことに対して十分過ぎるほど誠実で、
ただそれだけのことなのだ。よそが口を出す話ではない。
それでも、重々判っているけれど、
あのお母さんに少しの間だけ乗り移って、
その子を抱いて保育園まで行ってあげたかった。




2021年4月1日木曜日

ヤングケアラー

若い時分に書いた文を読み返してみると、
全般、恥ずかしいという気持ちしか湧かないのですが、
十代の頃に介護した祖母についての文だけは、
本当のことが(叩きつけるように)書けている感じがします。

昨今、ヤングケアラーという言葉をよく耳にするようになりました。
当時の私も今にして思えば典型的なヤングケアラーあり、
その疲弊によって、後の人生が些かややこしくなってしまったことは否めません。
今、使命感をよすがに日々を何とか過ごしている若い介護者の、
その後の健やかさを担保するために、
何か出来ることはないだろうかと思います。

*****

僕はあなたに感謝します
小さくふにゃふにゃな僕を お湯で洗ってくれてありがとう
そのふしくれだった手の温度がなくては
三歩と歩けず立ち止まってしまう僕を
外へと連れ出してくれてありがとう
線路わきの金網ごしに
いつまでも 電車が走るのを見せてくれてありがとう
なんにも知らない僕をとなりに座らせて
お経の読み方を教えてくれてありがとう
おたふくみたいな顔をして笑わせてくれて
ありがとう
おみやげにプラスチックの日本刀を買ってくれて 
ありがとう
でも
僕はいつのまにか 線路わきで電車を見なくなりました
お経の読み方も忘れてしまいました
プラスチックの日本刀も なくなってしまいました
僕は すっかりぼけてしまったあなたのことを
どなりつけ
あざけり
さげすんだ
眠ってくれないあなたの前に土下座して
お願いだから寝てくださいと 泣きながら頼んだとき
あなたは繰り返し僕に言った
「悲しませてすまないけれど、
 あたしが何をしたって言うんだい?」
僕はさらに激しく泣きました
僕は お願いだから寝て下さいと泣いて頼みながら
心の中では
お願いだから死んでくださいと 叫んでいたのです
ごめんなさい
あなたが死んだときは 涙ひとつぶ流さなかったのに
今ごろになって ごめんなさい
僕はあなたに あやまります


2020年11月29日日曜日

キライ

 最近、親の見ていないところで長男の青が弟の橙を叩く。
見ていないところでやろうとするからには悪いことだと判ってはいるようだが、
もうしないと約束してもまたやってしまう繰り返しで、
今夜、これで何十回目かと頭に血が上り、
彼が弟にしているように頬をひっぱたいた。

「痛いだろう、どうしてこんなことをする」

「ゴメンナサイ」と言うが、虚ろな目である。
これでは何の解決にもならない。
なぜ、と訊いても答えは無い。
「なぜ」という質問に答える能力が彼にはまだ無い、こちらが言い当てるしかない。
「パパは好き?」
「スキです」
「ママは好き?」
「スキです」
「橙くんは?」
「・・キライです」
その冷たい口調に驚いた。どうしてだろう?弟の何が嫌なのだろう?

「橙くんのほうが、言葉が上手だから?」

その瞬間、長男の顔つきが変わった。
はっとしてこちらを見た後、泣き顔になって床へ突っ伏した。
そうか、嫉妬だ。弟の健常が羨ましいのだ。
ここまで育ってきたか、と思うと同時に、
難しいところに差し掛かったな、とも思った。

「・・ねえ橙くん、青くんが小さかった頃、
 お医者さんは、青くんは一生何も話さないかも知れないと言っていた。
 パパやママや橙くんにとっては、言葉を話すことは難しくない。
 でも青くんにとっては、それは宙返りをするくらい難しいことなんだ。
 でも青くんは、ここまでとてもとても頑張って、こんなに話すようになった」
「うん」
「でもね、青くんがそれだけ頑張っても、
 橙くんのほうがもうずっと上手に話せてしまう。
 どうしてなんだ、ずるいよと思ってしまうんじゃないかな。
 そういう気持ちって、橙くんは判る?」
「うん。青くんの気持ち、わかるよ」
「青、きみがどれだけ頑張ってここまで来たか、
 パパもママも知っているよ。
 それだけ頑張っても上手く話せない、それがどれだけ悔しいかわかるよ」

いや、それは嘘だ、
私は目も見えるし耳も聞こえる、歩けるし走れるし、
そして何より言葉に不自由を感じたことなどこれまでただの一度もない。
彼の気持ちをわかるなんて、
障害を抱えた人の気持ちをわかるなんて、
それは見え透いた偽善だ。
だが他に何と言えばいいのだろう?
そしていずれにせよ、最後に言わなければならないことだけは、はっきりしている。

「でも、だからって人を叩くのは違うよ。
 橙くんを叩いても、青くんの言葉がうまくなるわけじゃない。
 叩いても、何にもならないんだよ」

子供達を寝かせたあと、妻と話した。
青の自己肯定感を高めるには、
以前なら、彼が出来るようになったことを逐一褒めてあげればそれで良かった。
これからは、もうそれでは済まない。
じゃあどうするかって、正直答えは無いけれど、
もう一度気持ちを引き締め直して、誠実にあたっていくしかないだろう。


2020年8月10日月曜日

伝え方

日曜、電車での外出の直前、長男の青が「パスモない」と言う。
普段玄関に置いてある小児用交通ICの、ケースはあるのだが本体が無くなっていた。
みんなで探していると、次男の橙が「あったよ」と言って持ってくる。
妻が「どこにあったの」と訊くと、「おもちゃ棚の中」と答えた。

ああ、と思って
「橙が隠したの?」と訊いたら
「違うよ」と言うけれど、こちらに背を向けている。
「こっちを向いてよ。橙が隠したの?」「違うってば」
みるみる声が震え、泣き出してしまった。

怒り飛ばしてやろうか、という衝動が沸き上がったが、思い直した。
これは彼の「言葉に出来ない声」なのだから、
言葉にするやり方を教えて、
最終的には、自分から言葉として発することが出来るように、
リードしてあげたいと思ったのだ。

「ねえ橙、パパは怒っていないし、怒らない。にいにと同じカードが欲しかったか」
頷く。
「そうだな、小学生になったもんな。作ってあげるよ。こっち向いて、こっちおいで」
抱きついてきた。
「でもね、こういう伝え方はしないでほしい。
 いちばん悪いやり方だと思う。
 何かしてほしいことがあるなら、言葉で伝えてくれ。
 いいよって言うこともあれば、ダメだよって言うこともあるけど、
 パパもママも絶対に、うるさがったり嫌がったりしないから」

甘すぎるだろうか、という考えも頭をよぎる。
ただ、自分が子供だった時、
同じような場面でかけてもらいたかった言葉ではある、とも思った。
そのあと行った仙川のロイヤルホストで、
次男は好物のパンケーキを、嬉しそうにたらふく食べた。



2020年5月2日土曜日

指輪物語

小学生の頃の私は、いわゆる「本の虫」だった。
「どこか遠いところへ行きたい」という強い願望を、常に抱いていたからだと思う。
「遠くへ行く」手段がマンガやゲームなら、
長いあいだ熱中すれば大人たちが必ず咎めるが、
本を読んでいるとなれば五月蠅いことは滅多に言われない。
毎週土曜、武庫之荘にあった尼崎市立北図書館へ自転車で行って4冊借り、
次の土曜日までに読み切って、また4冊借りる。
正面玄関入って右側の児童書コーナーは、私にとって宝の山だった。

「遠くへ行きたくて」読んでいるので、
畢竟、海外のファンタジーにのめり込んだ。
福音館書店のハードカバーで読んだ海底二万マイルやジャングルブックや宝島、
偕成社から出ていた大どろぼうホッツェンプロッツにクラバート、
それからとりわけ、
岩波書店によって知ることが出来た数々の名品。
ドリトル先生、ナルニア国ものがたり、ゲド戦記、ケストナーにリンドグレーン、
そしてミヒャエル・エンデの「ジム・ボタン」「モモ」「はてしない物語」など、
枚挙に暇が無い。

あらかた読み尽くしたと悦に入っていた小学五年の十二月、
壁一面の本棚の端っこに、それまでは無かったものを見つけた。
味も素っ気も無い装丁、およそ児童書のコーナーに似つかわしくない、
評論社文庫旧版の指輪物語だった。
その時の私はまさにちょうど
「大人が読むような、味も素っ気も無い表紙の本」を
手に取りたいと思っていたところだった。
冬休み前だったので6冊全部
(現在流通している新版の文庫は全10冊だが、旧版は3部作×上下だった)
借りることができ、
その年末年始、まだ元気だった祖母の部屋の炬燵に潜りながら、
私は中つ国を存分に旅した。

今にして思えばあの指輪物語は、
おそらく当時の司書さんが、大人用の書棚から移してきてくれたものだった。
私だけのために、というのはさすがに傲慢が過ぎるけれど、
私のような本の虫、毎週毎週通ってくる変わり者の子供のために、
あの年の瀬「こいつもいってみろよ」と、投げかけてくれたのだと思っている。





2020年5月1日金曜日

彼方なる歌に耳を澄ませよ

 座右の書、アリステア・マクラウド「彼方なる歌に耳を澄ませよ」

アリステア・マクラウド(1936-2014)は非常に寡作、
自分が育ったカナダ東端ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島の
スコットランド系移民の話「しか」書かなかった人だ。
歴史に立脚して生きる親の人生と、それを後ろに置いていかざるを得ない子の人生。
別巻の短編集「灰色の輝ける贈り物」所収の「船」における、
子から父への思いを綴った次のような一文に象徴される世界である。

「自分本位の夢を一生追い続ける人生より、
 ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」
(I thought it was very much braver to spend a life doing what you really do not want
 rather than selfishly following forever your own dreams)

「彼方なる歌に耳を澄ませよ」は唯一の長編で、集大成と言ってよいだろう。
結びの一節
「誰でも愛されるとよりよい人間になる」
(All of us are better when we're loved)は、
障害を持つ長男と生きる上で、私を支え続けてくれている言葉である。




2020年3月15日日曜日